①
泥のような眠りからぼんやりと目が覚める。カーテンドレープの隙間から零れる日差しが、いつもよりも眩しい気がした。
ベッドの上に半身を起こしてぼんやり考える。やっぱりいつもの朝よりも体が重い。頭も重い。昨日何かやったっけと考えながら、自由奔放にあちこち向かう青い髪をくしくし掻いてカイトはそれでもベッドを下りた。
カーテンを開ければやはり晴天。秋の空が高い。カイトはうーんと一つ伸びをした。空模様から見るに、カイトらのマスターであるところのこのパソコンの持ち主は今日はだいぶ機嫌がいいらしい。
スリッパを引っかけて、パジャマのままリビングに向かう。正確にはその奥のキッチンへ。リビングのドアを開ければもう、芳しい朝ごはんの香りが立ち込めていて、キッチンにはお気に入りのエプロンで甲斐甲斐しく立ち働く後ろ姿が見えた。ちょっとした所作に襟足に揃った茶色い髪が揺れる。思わずへにゃりと笑み崩れた。
既にテーブルに並べられた分と合わせて、美味しい朝ごはんのメニューをくんくんと犬のように嗅ぎ分ける。今日は和食。白いご飯は炊きたて、主菜に焼きシャケ、副菜はほうれん草のおひたしにシラスおろし、そして味噌汁は多分豆腐とねぎだ。おまけに今まさにもう一品増えるところだろう。細い手首が鮮やかにフライパンを翻す。ほんのり甘い卵焼きは彼女の得意料理で、この家に住むみんなの大好物だ。
これらはいつも通りの光景。ここでカイトが一言、おはよう、と呼びかければ、さらさらの茶色い髪を揺らしながら振り返り、おはよう、と答えてくれる。そして彼女は尋ねるのだ。
『今日の予定は?』
それからあとは、その日その日だ。マスターからの呼び出しはもちろん最優先に、家でみんなでゲームをしたり歌ったり、個人個人で好きなことをしたり歌ったり、ネットの海に繰り出して友達に会ったり。そしてあわよくば、二人で出掛けたり。
今日は天気もいいし、思い切って誘ったら、ひょっとしたら一緒に出掛けてくれるかもしれない。天気が良いから今日はお洗濯をしたいな、なんて言われてしまうかもしれないけれどそれならそれでもいい。ミクやリンやルカ、ついでにレンも。お姉ちゃん大好きな兄弟たちに阻まれてしまうかもしれないけれど、ひょっとしたら少しくらい二人になるチャンスはあるかもしれない。
兄弟が増えたのは嬉しいけど、時々少し困る。カイトはそっと苦笑した。ちなみに彼女について言えば、姉弟だと思ったことは、一度も、ない。
初めて会ったその日から、カイトにはただ一人の女性だった。そのひとの背中に向かって呼びかける。
「おはよう」
メイコがぱっと振り返る。茶色いやわらかい髪が踊るように跳ねて、カイトはあれ、と思った。
なんだかいつもと様子が違う。
「お、おはよう、カイト」
はにかむように微笑む。いつも明朗なメイコにしては、ちょっと珍しい表情だ。かわいいけれど。両手の指を組み合わせ、きゅっと握り合わせるのは緊張している時の癖のはず。どうして今、何に。
不思議に思いながらも、カイトは募る期待を込めて尋ねてみた。
「あ、あのさ。めーちゃん、今日は何か予定は……」
尋ねながら既に、何かを誤ったことに気がついた。メイコの頬から笑みが引く。明るい茶色の眸がなんだか揺れて、カイトをじっと見詰めてきた。訝るような声が零れる。
「『めーちゃん』……?」
思わずカイトも首を傾げた。『メイコ』だから『めーちゃん』。ずっと呼んできた愛称だ。どうして今更にして疑問形なのか。
「う、うん……めーちゃん……」
出会ったその時に一目惚れをして、立派なボーカロイドになって告白するぞと決意して以来、早年月。谷あり谷あり一向に山を登れず、彼女は高嶺の花のままだった。ミクが来て、たくさんの人に歌を聴いてもらえるようになったのはいいけれど、今度は出来上がってしまった『きょうだい』の枠組みがカイトを阻む。
それならせめて一番近しい存在でありたい。だから呼ぶ名は兄弟の中で一人だけの愛称。『めーちゃん』。本当は『メイコ』なんて呼び捨てにしてみたいけれど、きっとそんな距離じゃない。彼女はまだ遠い。そんな思いを込めて呼んでいる名だから、そこに疑問を持たれてしまうのはまるで、距離を置かれているようで、胸が痛い。
メイコが取り繕うように、笑う。
「そうよね!いきなり変わるの、なんだか変だものね!」
なんだか空元気のようで、いや、それ以上によくわからない。捻りすぎた首がこてんと横に倒れ、カイトは呟く。
「いきなり?変わる?」
メイコは何を言っているんだ。疑問符で頭上を埋めていると、メイコの表情から空元気さえも見る見るうちに抜けていく。PV撮影のために一度触ったことがあるきりの白くて柔らかい頬が強張って、唇が震えた。
「カイト……ひょっとして……」
掠れ、振れる声。メイコのこんな声は聞いたことがない。
「昨日のこと、忘れてる?」
こんな表情見たことない。繊手が血の気もなくすくらいエプロンを手繰って握ってる。
え、え、え、と戸惑って、カイトは必死に記憶を手繰った。
「き、のう……?」
昨日は確か、そうだ、ルカが来て以来その座を奪われていた晩酌のお供に預かって、決して強くもないのにそれなりにしたたかに呑んでしまったのだ、と思い出す。メイコはメイコでなんだかいやに機嫌がよくて、お気に入りのはちみつ梅酒をお代わり数杯、そのあとは缶サワーもおいしいけれどやっぱり自分で割るほうがおいしいのよねと自宅でバーの勢いで、随分呑んでいた。
いやいやそれでもそんなはずはない、ちゃんとベッドで寝ていたのだし、メイコと二人でリビングを片したような覚えはあるし、ちょっとよくよく考えればきっと思い出す。そう考えて必死で手繰ったのだが、既に致命的だった。零れた一言で充分に伝わってしまった。覚えていないのだということが。
蒼褪めていた頬に、ふっと色が乗る。怒りと悲しみとやるせなさとその他もろもろ。混ざり合ってぐちゃぐちゃになって、その色はメイコの頬を朱に染めた。今まで見たこともないくらい鋭い眼光でカイトを睨んだ明るい茶色の眸から、ぽろりと一筋涙が零れる。
「カイトのばか。最低」
荒げられた声でなくぶつけられた言葉が痛い。世間の荒波にさらされて、へたれてくずおれそうになってた時にさえカイトを否定しなかった声に、初めて罵倒された。
ひと言も返せない。呆然と縋る目で見るカイトに脱いだエプロンを投げつけ、メイコはリビングを出て行ってしまった。
立ち去る足音と玄関が開き、閉じる音。リビングどころか家を出て行ってしまったようだ。カイトは投げつけられたエプロンを頭に引っかけたまま、ぱちぱちと瞬くしかできなかった。
「ちょっとお兄ちゃん!どういうこと?」
問いかけながら駆けこんできたミクが、佇む青めいた物体に急停止、アイドルらしからぬ表情で一歩引く。後ろから覗きこんだリンもレンも顔をしかめて、うわあ、と呟いた。更に後ろから室内を覗くまでもなくルカが呟く。埋めてきましょうか。
安全装置が働いて火を止めたコンロの上ではフライパンが、みんな大好き卵焼きを真っ黒に焦がしていた。
→beeさんの②に続く!